『考えの育て方: 知的生産のデジタルカード法 (Knowledge Walkers Books)』
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ISBN:B0CLTZYMBR
「いかにすれば、デジタルツールでカード法を実践できるのか?」
十数年にわたる筆者の悪戦苦闘の旅を振り返りながら、デジタル時代の知的生産の技術を探求する。カードとは何か。アイデアはどう扱えばいいのか。自分の考えを育てていくにはどんな姿勢が必要か。さまざまな領域へと思考の根を広げながら、探求の枝は広がっていく。
名著『知的生産の技術』に憧れた人も、まったく読んだことがない人も、等しく「何かを考える」ことが好きな人に送る、新時代の「知的生産の技術」。
目次
はじめに 情報カードに憧れて
第一章 過ちを振り返る
新しかったEvernote/メメックスには至れない/未熟な情報整理/整理の基本
第二章 カードの作り方
カード作成のポイント/小さく考えていく/考えを育てる具体的な手順/驚き駆動で考えを広げる/大きなカードシステムを可能にする仕組み
第三章 不完全と混沌を受け入れる
中途半端で続けていく/不完全なライブラリ/混沌からはじめる/考えを育てるには時間がかかる
第四章 カード法の外に出る
執筆におけるScrapbox/思考の葉を広げる
さいごに デジタルノートを巡る探求
(以下「はじめに」よりの抜粋)
『知的生産の技術』との出会い
梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読んだのは、この分野に興味を持ってからずいぶん経ったころだった。
具体的な日付は不明だが、自分のブログに書評記事を上げているのが2009年8月27日なので、おそらくはその付近だろう。この分野の本を読みはじめたのはそれよりもはるかに昔、それこそ青年期のアイデンティティが固まっていく時期(2000年ごろ)だったから後発も後発だったと言える。
しかも、大きな期待はしていなかった。私にとっての二人の知的ヒーロー(野口悠紀雄と立花隆)が揃って、この本で紹介されているとする方法をこき下ろしていたからだ。「カードを使うなんてばかばかしい。頭の悪いやつのやることだ」。そこまで強い言葉ではなかったかもしれないが、私の印象にはそのように刻まれていた。ようするに、「新時代の知的パーソンに乗り越えられてしまった、過去の人の本」という気持ちで手に取ったわけだ。
もちろん、大きな勘違いである。
本書ほど現代を視野に入れている本はない。出版から60年以上経った今でもそう言える。むしろ本書こそが現代的な議論の出発点になるに違いない。そのときの私は、はっきりとそう感じた。
そのギャップ、つまり事前のマイナスの予想と事後の大きな期待の差によって、本書の存在は私の心に強く刻まれることになった。それと同時に、本の中で紹介されている「情報カード」にも憧れた。著者の梅棹のようにたくさんのカードを書き、そこから彼と同じように大胆で、しかも射程の広い「考え」を展開してみたい。そこまで意識的な欲望ではなかったかもしれないが、「同じようなことをやってみたい」という希望はたしかにあった。梅棹への、あるいは彼が為した仕事への渇望が湧いてきたのだ。
それまでも小さなノートを持ち歩き、そこに「発見」を書きつけることは続けていた。いわゆる「発見の手帳」だ。大学時代から始めたその習慣は、20代になり、コンビニで店長をしているときでも続いていた。出かけるときに手帳やミニノートを持っていないと不安になったくらいだ(その当時はスマートフォンなどなく、ガラケーでのメモにはかなりの無理があった)。
そうしたメモ習慣は、間違いなく物忘れを防いでくれた。私がブログの更新を十年近く毎日続けられたのも、そうした習慣に依るところが大きいだろう。
しかし、そこまでだった。便利以上の何かにはならなかったのだ。少なくとも梅棹が『知的生産の技術』で提示したような着想を大きく育てていくことにつながっている感覚はまったくなかった。
カードを導入すれば、その閉塞感に新しい風が吹いてくるかもしれない。そんな期待が高まったのだ。
しかし、事は簡単ではない。
情報カードはアナログツールである。つまり、物理的な存在だ。しかも梅棹が推奨しているのは今なら京大式と呼ばれるB6サイズの厚手のカードだった。そのカードに自分の発見を書きつけていけばどうなるか。当然カードが増える。カードが増えれば、その置き場所も設けなければならない。
そもそも自分のノートと買った本の置き場所にすら困っているのだ。そこに「情報カード」なる新たな陳列物を増やす決断は簡単にはできない。なにせ始めたら途中では止められないものなのである。カードで始めたら、カードで続けなければならない。途中でサイズを変えることも基本的にはできない。これはかなり思いきった決断が必要になる。
そこで、お試しとして100枚だけカードを購入し、使ってみることにした。情報カードを書くとはどういう感覚なのかを捉まえるための一種の実験である。
本命は別にあった。Evernoteだ。ちょうど2008年ごろから日本でも使われはじめたEvernoteこそが、「デジタル時代の情報カード」として使えると、私は見込んでいたのである。
むしろ因果は逆に語ったほうがいいだろう。私が『知的生産の技術』をはじめて読んだとき、すでに私はEvernoteのユーザーであった。そして『知的生産の技術』を読みながら、「これこそがEvernoteの使い方だ!」と発見したのである(当然、その発見もメモした)。
梅棹が述べる数々の方法や考え方は、Evernoteで実装できる気がしたし、Evernoteならもっとうまくやれると思った。実際にやってみると、たしかにそうだと納得できたことも多い。住所録やメールのやり取りの備忘、Webクリップ(昔ならスクラップブックと呼ばれていたもの)やメモ帳としては抜群にうまく機能した。大量の情報を保存しても、ノートブックやタグで分類し、キーワードで検索して、それらを取り出せる。アナログ時代ではまったく考えられなかったことだ。それが一つのアプリケーションだけで完結してしまう。情報を探すために、あっちにいったりこっちにいったりしなくてもいい。これは、野口悠紀雄が述べた「ポケット一つ原則」にもぴたりと当てはまるではないか。
人間のバイアスの一つに確証バイアスというのがあるが、まさしく私はそのバイアスにはまりこんでいたと言えるだろう。Evernote=情報カード=知的生産のシステムという等式を成立させるのにふさわしい情報ばかりに注目していたのだ。
だから私はずいぶん長く見過ごしてしまった。なんだかんだで、梅棹が述べたような「情報カードの使い方」をEvernoteでは為せていなかったことを。それだけではない。その後試したさまざまなデジタルツールでも、結局「情報カードの真似事」にしかならず、自分が求めるような成果には至れなかった。挫折に挫折を繰り返していたのだ。
しかし2023年の現時点では、驚くほど満足いく運用ができている。使っているツールがEvernoteからScrapboxに移ったからだ。とは言え、ツールが素晴らしいから私の問題があっさり解決したわけではない。そんなに簡単な話なら、私もここまで挫折を重ねなかっただろう。そうではなく、Scrapboxを使っているうちに私自身の考え方が変わり、その変化がツールとのつき合い方にも変化を起こしたことで、結果としてScrapboxとうまく付き合えるようになったのだ。そうしてようやく梅棹が実践していた「情報カード法」を、デジタルツールにおいて実践できるようになった。
本書では、私のそうした挫折の多い歩みを読者と一緒に振り返ってみたい。
そこで明らかになることは、本書で中心的に紹介するScrapboxというツールの使い方を超えて、デジタルツールと私たちの関係を考える上でも有用なものになるはずだ。
では、さっそくはじめよう。